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近江の歴史探訪

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グランドサークル


ヨセミテ国立公園

ヨセミテ再訪・パノラマ街道395号

出生の地 石田村

銅像と「石田治部少輔出生地」の石碑。
1990年390回忌に建立
銅像拡大 大徳寺に葬られていた遺骨を復顔する作業が行われ、参考に作製されたようです。
現在、石田会館のあるところが石田屋敷の南端で小字名を三成公の官職名から「治部」と呼ばれています。 石田会館には三成公関連のパネルやゆかりの古文書などが展示されています。 石田家は大きな敷地を有し、堀端と呼ばれている池は当時の屋敷堀の一部と伝えられています。石田会館の横にあります。
八幡神社 石田家の氏神と伝えられています。
この裏の苔むしった盛土があり、ここから石田家の墓が出土しました。 この盛土に触れるとお腹が痛くなると伝えられて村人に恐れられていたとのことです。
八幡神社の横に石田神社の石碑があります。何時ごろ建てられなぜなんでしょうか。

【説明板】
供養塔建立の由来
昭和16年に隣接の八幡神社の地中より故意に破壊された多数の五輪塔の残欠が発掘されました。その一部に「永禄六月」「天正十四年正月十四日」「妙性霊位」或いは「缶禅定門」等の文字が刻まれこれら墓石残欠は石田三成公の先祖に深い関係あるものと推定され、おそらく関ケ原合戦直後の里人が徳川方の追及を逃れる為に神社を隠れ蓑に密かに埋め隠したものと思われます。さらに「これに触れると腹が痛くなる」と云い伝えられて堅く発掘を戒めてきましたが、顕彰会の手で発掘され、その後もこれらの墓石を仮の墓所で30余年館供養して参りましたが昭和48年11月地元はもとより全国600数十人石田三成公に理解のある方々の浄財を以って墓所を整備。改めて墓石を安置し新たに石田三成公及び一族家臣の供養塔を建立して公の霊を慰め一層事蹟の顕彰をすることになりました。毎年十一月六を公の命日として墓前に於いて慰霊法要が厳修されます。

石田三成公及び一族家臣の供養塔
石田三成公一族及家臣供養の石塔 墓石の出土跡
供養塔敷地内にある辞世の句碑
「筑摩江や芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく我が身なりけり」
三成公の自筆による歌
「残紅葉 散り残る紅葉はことにいとおしき 秋の名残はこればかりぞと」

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出会いの場所 観音寺

観音寺(伊富貴山観音護国寺) 平安時代前期の850年頃、僧三修によって建立1259-1260に、現在地に移築。 三成公が少年の時学問修業に励んでいた所。 ここで15歳の時、長浜城主秀吉公に出会う。鷹狩りに訪れた秀吉は、喉が渇いたので観音寺で休憩をしました。そこに偶然居合わせた三成がお茶を差し出しました。一杯目は大きな器にぬるめのお茶を差し出し、秀吉は一気にそれを飲み干しました。さらに茶を欲した秀吉に対し、一杯目より湯の量を少なくし、先ほどより少し温かいお茶を差し出しました。さらに三杯目を欲すると、次は小さな器に熱いお茶を入れて差し出しました。秀吉公が三成少年を「三碗の才」で見出したことで有名です。

惣門(重要文化財) 本堂(重要文化財)
鐘楼(重要文化財) 奥は薬師堂でかなり建物が損傷しているようです。真ん中には横山城址へのハイキングコース入口があります。
横山城(ウィキペディアより)「1561年、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点として築城させ、織田信長と浅井長政の激しい戦いの拠点であり、姉川の戦いで落城しました。信長は城番として木下秀吉を任命。秀吉はここを拠点として浅井氏攻略を行った。1573年9月に浅井氏が滅亡すると、秀吉は浅井郡・坂田郡の支配権を与えられ、本拠地として長浜城を築城。これに前後して横山城は廃城となったと考えられている。」
標識
「太閤ニ茶ヲ献上スル時 石田三成 水汲ノ池」

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成菩提院・長浜城

三成の所領であった柏原にある天台宗の古刹、成菩提院(じょうぼだいいん)には「十三ヶ条掟書」が保管されています。
十三ヶ条掟書
 三成の治世の特徴。原理原則を貫く(公平性を保つ)。時と場合によって変わることなく、いつも同じ判断基準を目指すため細かく行き届いた「掟書」による規定を領内に出した。十三ケ条は直轄の村々に九ヶ条は家臣領の村々へ
豊臣秀吉が城主として過ごした長浜城は、江戸時代前期に廃城になり、遺構は彦根城や大通寺に移築されました。その跡に昭和58年(1983)に安土桃山時代の城郭を模して復元した天守閣(長浜歴史博物館)です。

佐和山城址

佐和山は 標高 232m 比高 134mでそんなに高くはありません。4年前に同級生とゆっくりおしゃべりをしながら登った時はそんなに大変だとは思わなかったので今回ツアーに参加して登ることに不安はありませんでした。しかし皆さん健脚(私がそれだけ老化したのか)で、いきなり前の人が見えないくらいの最後尾。案内は彦根市の教育委員会の方でした。随所で説明があったと思いますが、私は登るのに必死で途中の西の丸の遺構発掘調査の説明が終わったところにやっと合流・出発。各所の遺構および説明版は見る余裕もありませんでした。頂上到着後、皆さんとは先に下山し、なんとかゴールが同じになった次第でした。(;´д`)トホホ。多くの方は翌日は三成公が隠れ潜んでいたと言われている 「大蛇の洞穴」に行かれました。

(拡大画像)画像をクリックしてください。 西の丸(塩櫓)発掘調査中でシートで覆われていました。
佐和山の頂上からの眺望 佐和山城址への登り口にある三成公座像
1982年に彦根石田三成公顕彰会によって建立

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宗安寺(彦根)

表門(赤門)は佐和山城の大手門を移築したものです。彦根城下町のほぼ中央にあり、かっては彦根藩の集会所の役割もはたし、大阪冬・夏の陣の戦死者の追悼会や藩士の会合が行われていました。また、江戸時代朝鮮通信使の宿館でした。

赤門
もと佐和山城の大手門
馬に乗っては入れるように高く、敷居がありません。
黒門(赤門の正面左側)
江戸時代 李王朝からの朝鮮通信使の一行数百名が江戸への往来途中彦根に泊り、宗安寺は高官の宿泊所でした。この黒門はその時の食材の搬入口といわれています。
本堂
1701年彦根大火により赤門を除いて全焼し、翌年長浜城御殿を移築。各所に桃山建築の遺構が伺えます。
石田三成公念持仏 石田地蔵尊
寄木造 室町時代(仏さまの撮影は不可)
三成公が佐和山山麓に建立した瑞岳寺に安置されていたとされる地蔵尊で、佐和山城が徳川方の攻撃で炎上したとき、瑞岳寺も延焼し、その時、運び出され、宗安寺末寺で預かっていましたが、末寺が無住時となり、今は宗安寺で安置されています。聡明なお顔のお地蔵さまで高さ1mぐらいです。
その横には「石田三成公念持仏 千体仏」が安置されていました。
こちらも瑞岳寺に祀られていた阿弥陀仏立像。佐和山落城の時運び出された。50cm四方ぐらいの厨子の中にたくさんの小さな仏さんが並んでおられます。
木村重成公首塚
大阪夏の陣で井伊家の軍勢と戦い戦死を遂げた豊臣方の勇将木村重成公の首塚。
その首を井伊家家臣の安藤長三郎が貰い受け、宗安寺にある安藤家の墓の隣に五輪塔を立てて埋葬しました。
血染めのススキ
安藤氏が重成公の首を大切にススキに包み持ち帰り、佐和山の麓の池で丁寧に洗いました。このススキが佐和山下根付きましたが、佐和山神社、井伊神社と移植されましたが今は由緒深い宗安寺にあり、説明板に「重成首塚と血染めのススキを一つにしたのも尊き仏縁の導きか」とありました。

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多賀町にある湖東の名刹天徳山高源寺

表門は佐和山城の裏門を移築。井伊直弼、長野主膳と関わりがあった村山たか女の晩年の肖像画が残っています。

佐和山城の裏門
馬で駆け抜けるため敷居がありません。明治九年の火災によりこの門以外は焼失。
村山たか女肖像画(明治初期に描かれたものと推測)
井伊直弼の密偵として献身した女性
明治9年(1876)の火災で高源寺は焼失したため、明治16年(1883)多賀大社の般若院と不動院、正覚院を移築。肖像画は院にあったものがそのまま高源寺に移されたと考えられます。昭和63年に、同寺の桂木住職が押し入れにあった肖像画を見つけ、たか女の肖像画だと判明しました。平成18年7月に多賀町文化財に指定。(公開は特別公開時のみ)

その他

ひこね道の駅 戦国丸
馬防柵に並び翻る西軍諸将の旗。マスコットキャラクターのみつにゃん(三成公)さこにゃん(嶋左近 三成の重臣)がお出迎え。店内には戦国武将のグッズが所狭しと並んでいます。
三成のキャラクターをあしらったラッピングカー
ゆかりの地を巡る「三成タクシー」。 米原駅のタクシー乗り場にたまたま止まっていたので家まで乗りました。

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